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♪東京へはもう何度も行きましたね 息子が歌っていた。 「なんでそんな歌知ってるの?」驚いて僕が思わず聞いた。 リリー・フランキーの「東京タワー 僕とオカンと時々オトン」のテレビドラマで歌っていたのだという。 作曲した年代はわからないが、それはたしかマイペースというグループが歌っていた。 むかし、カラオケでいつもこの歌を歌っていた男がいた。僕がある小さな会社で雑誌の編集長をしていた頃,彼はその雑誌の印刷を担当していた。彼は北海道の出身だった。日大を出ていて、なかなかの文学好きでもあった。彼に親近感を持ったのは彼の親父さんも僕の親父と同じポッポ屋ということだったからかもしれない。一緒に酒の付き合いはした。彼は僕より7,8才も年下ということもあり、早く所帯を持って責任ある仕事をしろと説教じみた話をよくしたものだ。僕と二人で飲むときは行かなかったが、会社のスタッフとで飲んだりすると2次会にはスナックでカラオケということになったのである。 その時、彼がこのお得意の歌を歌うのだった。しみじみと北海道から憧れの東京に出てきたという自分の青春を懐かしむように。彼はこの歌しか歌わなかったような気がする。でも僕は彼が歌うこの歌が好きだった。 東京へはもう何度も行きましたね きみの住む美し都 東京へはもう何度も行きましたね きみが咲く花の都 その会社が倒産し、僕らは別れ離れになった。しばらく彼のことは忘れていたが、風の噂に、彼を面倒観てくれる印刷屋さんがあったということを聞いてよかったと思った。というのも彼は酒で仕事に穴を開けるようになっていたのだ。だからどこに行っても長く勤めることができなかったのだ。 そして何年か前、彼から連絡があり、一緒に飯を食べませんかという誘いにのり、会ったのだが、昔の茫洋とした人のいい顔つきではなくなっていた。お酒が人格を変えてしまったのかもしれない。彼はまだ独身だった。彼のお酒の呑み方を見て、少しやばいなと感じた。それから1年後くらいたってからだったか、彼がアパートの一室で亡くなっていたということを聞いた。肝硬変だったらしい。北海道から老いた両親が、彼の冷たくなった身を引き取って帰ったということだった。 # by hensyuchou | 2007-03-22 23:39
お正月に田舎に帰ったとき驚くべき話を聞いた。オフクロが言っていたのだが親父の兄貴に当たる松本の叔父さんが硫黄島の生き残りだというのである。叔父さんは海軍の陸戦隊に属し、戦艦夕張にも乗っていたという。叔父さんがあの戦場で生き残ったのか、それともあの戦いが始まる前に島を引き上げたのかは親父に聞いても埒があかなかった。親父も叔父さんも耳が遠くてなかなか話が続かないのである。しかも叔父さんは昨年、一度危篤になりもうだめかと思われたことがあったのだ。もう少し早く硫黄島帰りだということを知っていれば、話を聞いておくんだったな。 ついでに言えば親父の一番上の兄貴はすでに他界しているが、兵隊時には中国大陸に出かけ南京までいっている。親父といえば朝鮮の仁川に駐屯していて、子どもの時分はその兵隊さんの時の体験をいろいろ話してもらったものだ。段々と戦争を体験している人たちが亡くなっている。僕が聞いたことを子どもたちに話しておかないといけないな。 # by hensyuchou | 2007-01-20 17:20
クリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作の「硫黄島からの手紙」を観た。 先の「父親たちの星条旗」よりも日本人にとって切実感があるため、気を引き締めて観ざるを得ないのは当然のことだった。 この映画の脚本がアイリスヤマシタという日系人だったせいなのかもしれないが、まるで日本映画のようでもあった。日本人が撮れない日本映画と言っていいのかもしれない。当時の日本人の思考方法、生活感覚などが何気なく描かれている。ただ二宮和也演じる兵隊のちょっとした反抗的な感覚、たとえば「こんな島はアメ公にくれてやればいい」というようなセリフを吐くシーンがあるのだが、当時の若者のそれとは少し違うのではないかと思った。 が、これはホントのところその世代の人に聞いてみなければわからないことかもしれない。でも確かなことは戦場で死にたくない、生きて帰りたいと思っていただろうということは真実に違いない。つまり黙々と上官のいうことをききながらも生きて帰りたいと思っていたのだろう。そして黙って無念にも死んでいったというのが現実なはずだ。 一緒に観にいった子どもが僕に聞くともなくいった。 「なぜ戦争ってあるのかなあ」 「なぜだろうね」って答えたものの、世の中には戦争を必要としている、あるいは戦争を利用しようという人間たちもいるというのがぼんやりとわかっている。中東の戦争も世の中のすべての人が平和であって欲しいと思っているのではないことを最近「ビルダーバーグ倶楽部」という本で知った。 それはさておき 「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」も骨太の映画だった。予算的なものは別として日本でもなぜこういう発想の映画というものが出来ないのだろうか… # by hensyuchou | 2006-12-16 23:08
クリント・イーストウッドの「父親たちの星条旗」を観ながらいろんなことを思った。まず、彼は映画監督として才能ある人だってこと。今さら僕が彼の才能をどうこういうのも口幅ったいことだけど、彼はリアリストというよりも現実とはなにかということをテーマにしているんだね。 たとえば戦争というのは互いの国が自国の利益のために行うわけだけど、その互いの国の姿を冷静に見つめられるかどうか、映画だからその視線をさらに興行的に人を納得させられるかという手腕が問われるわけだが、その点でこの映画は成功していると思う。 「プライベイト・ライアン」の時もそう感じたけど、昔の戦争映画と違って、戦闘状況を描く場合など本当にリアルになったね。あれは戦争というものの戦場においてかくもそうだろうと実感させるに十分な迫力があった。爆弾や銃弾によって腸が飛び出たり、首が吹っ飛んだり、死体もバラバラだったり、戦闘の現場はあれ以上のものなんだろうなと想像するだけで怖い。かっての「コンバット」が微笑ましく懐かしいくらいだ。 舞台になっている硫黄島で繰り広げられるすざましい殲滅戦のリアルな映像は、いつも楽しんで観ていたアメリカ映画の戦争物とは気持ちの上で異ならざるを得なかった。なぜなら米軍と戦っているのは少し前の私たち日本人たちなのだ。 硫黄島に集結したアメリカの軍艦のその数のすごさを摺針山の上から俯瞰で見せるのだが、その圧倒的な軍事力を持った米軍と勝つ見込みのない絶望的な戦いに追い込まれていった日本軍との戦闘は目を覆いたくなるほど胸苦しくなるばかりのものだった。死ぬことがわかっても戦わざるを得なかった日本の兵隊さんたち…辛かっただろうなあ。 クリント・イーストウッドは戦場には一人の英雄も戦場にはおらず、ただ地獄のみがあることをメッセージとして伝えていた。 ところで昔、僕が自衛隊の広報誌「セキュリタリアン」という雑誌の編集アドバイザーをやっていた頃、硫黄島を訪れたことがあった。島で日本相撲協会が慰霊のための奉納相撲を行うためだった。当時の横綱は貴乃花と曙である。日米合同慰霊祭という目的もあって土俵入りが行われ、幕内力士の取り組みもあり、慰霊祭の花として十分な芸能であったことを僕は雑誌に報告したものだった。記事の内容はほとんど忘れてしまったが、今でも覚えているのは、塹壕の中の極度の暑さ、島内を歩けばいまだ至る所に弾丸の薬莢がちらばっていること、夜の浜辺で行われたカラオケ大会でお相撲さんと自衛隊員が「同期の桜」を歌い合ったこと、その夜空に南十字星が輝いていたこと、この巡業が未だ島に眠っている兵士の方々の慰めになればと願ったことなどである。 映画を観て忘れていた硫黄島のことを思い出した。安穏と暮らしている僕らの生活はかつての兵隊さんたちの犠牲の上に成り立っていることをかえすがえすも忘れてはなるまいとどれだけの人が言ってきたのにもかかわらず、思いは霧散していくばかりだ。 映画を見終わった人たちも大きな沈黙をどのように処理していいのか重い足取りで映画館を出て行く… # by hensyuchou | 2006-11-26 19:54
映画「フラガール」を観た。炭坑の町,常磐市に昭和40年、常磐ハワイアンセンターが出来たとき、炭坑夫の娘たちがフラダンスのダンサーになろうとするストーリだ。この映画は「3丁目の夕日」の30年代を経て日本の高度成長が始まる昭和40年代の時代の一端を描いている。 炭坑も閉山し、新たな事業に乗り出さなければならぬとき、大衆の夢でもある「ハワイ」を東北の町に創り出そうとという企画は当然ながらその是非を巡って様々な葛藤を呼び起こしたはずである。フラダンサーのリーダーともなる紀美子の家も母、兄とも炭坑夫の仕事をしており、母は娘がダンサーになるなどもってのほかという具合に常磐ハワイアンセンターを作ることそのものに反対なのである。 この炭坑に生きる母が富司純子(藤純子)なのである。炭坑夫だった夫は炭鉱事故でなくなっている。きっと高倉健みたいな男だったのではないかと想像する。(そうか、健さんはヤクザ渡世のあと、堅気になってこの町に二人でやってきたのか…というふうに。) ところで炭坑とダンスといえば、イギリス映画に「リトルダンサー」というのがあった。こちらはオヤジが子どもの夢(バレエ学校に入る)をかなえるためにスト破りをしてまで仲間を裏切ったが、紀美子の母も娘のフラダンスを真剣に学んでいる姿に感動してフラを支える側になったわけだった。炭坑とダンスというのは不思議な具合に絵になるのだ。大地を掘る行為と地上を舞うあるいは跳ねるという行為が対照的だからだろうな。具体と抽象というふうに言い換えてもいい。 さて昭和40年といえば僕が高校2年のころである。テレビでは確か開高健が係わった「トリスヲ飲んでハワイへ行こう」というCMが流行していた頃だ。その頃1ドルは360円。ハワイに行ける人はお金持ちの新婚旅行ぐらいだった。プレスリーの「ブルーハワイ」という映画も、上映されていた記憶がある。 常磐ハワイアンセンターという施設があることは大学生の頃には知っていたが、船橋ヘスセンター同様に行ってみたいところではなかった。今でいえばテーマパークなのだが、そのあり方が魅力のあるものではなかった。このあと大阪万博が用意され、経済の発展とともに大衆の消費意識は電通と民放いう巨大な影のなかで踊らせられるのである。 # by hensyuchou | 2006-10-08 15:52
マサアキちゃんが僕らの街からいなくなったのは、中学1年だったか2年だったか… 山形県の坂田市に引っ越したということだった。クラスが違ったから、小学生の時のように毎日一緒に遊ぶことはなくなっていたが、学校は一緒に行ったような気もする。だけどお別れ会をしたような記憶もない。言ってみれば風のように去っていったような気もする。 彼との別れはそんなに悲しみあふれたものではなかったような気がする。なにか漠然とまた会えるような気がしていたからだ。彼と再会したのは、二十歳も半ばを過ぎてからじゃなかったか…以来またぼちぼちと会い、幼なじみの頃の交流をさせてもらっている。 中学時代強い友情でつながっていたのは亀岡君だった。(亀岡君は中学1年生の時マサアキちゃんと同級だった)彼は中学2年から同級になったが、同級になる前も顔は知っていた。彼は100人近くいる野球部にいて、いつも球拾いをしていた。学校の帰り道、彼と出会ってなんとなく「やあ」と挨拶を交わすようになっていた。彼は背が低くとてもレギュラーになれるような体格ではなかったが、野球部の番長級の男にも言うべきことはちゃんと言える男だとみんなからも認められた存在であり、どうしてもマネージャーになって欲しいと懇願されて引き受けたようだった。 亀岡君とは高校でも一緒だった。僕とは違って頭がよかったが、どうしたことか洋服のデザインをやりたいということで桑沢デザインスクールに進んだ。当時、長岡高校からそんな学校に進む者は過去誰一人おらず担任のコルゲン(学級主任)も慌てていたようだった。 なぜ彼のことをここで話すかというと、彼からあることを学んだからだった。 僕が大学を辞め芝居なんぞをやっていた頃、自分の悩みを彼に話したことがあった。もちろん酒の席だったが、アパレル関係に進んでいた彼は僕に「おまえはいいよなあ、自分のことに悩める暇があって」と皮肉ともつかぬ打ち明け事を逆に吐露されたのである。つまり彼は会社の人事でいろんな悩みを聞いたり、解決してあげたりする立場でへとへとになっていたような時期だったのだ。 僕は横っ面をはり倒されたような気持ちになった。恥ずかしくなった。自分がガキの精神年齢にあることを認識されたのだった。自分のことより他人のことで悩んでいる同世代の男もいたのかと自分が情けなくなったのだった。 そんな親友が一昨年の今頃、ガンで亡くなってしまった。 いまでも彼のことを思い出すのは、いつも中学校の校庭の隅で大勢のレギュラーになれない野球部の連中とかけ声をかけながら球拾いをしている姿だ。あいつは球拾いの最中にレギュラーになれない仲間の悩みや心情を拾ってもいたにちがいない。なぜかいい男って言うのは早く死んでしまうものだ。君とまた一杯やりたいにもやれないことが悲しい。 # by hensyuchou | 2006-09-18 13:53
秋場所がはじまっているんだね。みんな相撲観てますか?昔からそんなに大相撲のファンではなかったけど、それでも子どもの頃は若乃花や栃錦が綱を張って、千秋楽の優勝争いに水入りなどが入りヤンヤヤンヤの喝采が巻き起こるほど人気絶頂だった。僕も手に汗を握ってテレビに釘付けになったものだ。 それにしても今の幕内力士の3分の1が外人力士なんだって?四股名もアニメのキャラクターみたいなけったいなモノが多くなった。お相撲さんになる子がいなくなったのか、日本人力士は弱いねえ。両国なんかのコンビニにはいると短パンとかジャージ姿の若い力士がうろついている。昔はちゃんと草履に浴衣姿だったのだが… だいたい今の子は相撲なんて取るんだろうか?僕らの頃は学校でも近所でもよく相撲を取ったものだ。僕は小手投げが得意で、大きな子もそれで投げ飛ばしたものだ。ホント。マサアキちゃんはさすが芸術肌で相撲はからきし弱かったけど、トントン相撲は優れものだった。お菓子の箱を裏返して土俵を描き、紙で作った力士,まわしのところが円の筒になっていて、箱を細かく叩いてどちらかが転んだり、土俵を割ったりした方が負けという遊び。彼が作ったお相撲さんはこれがほんとうにうまいんだ。真似をして僕も作ったけど、何となく不器用なものばかりだった。それでも雨が降ると家でトントン相撲を一人でしたっけ。ちゃんと東西の横綱から前頭の最後までつくって、番付表は勘亭流の字を真似て星取をつけたものだ。横綱はやはり強い。その秘密は回しを大きくして安定感を強いものにしておいたからだ。それでも番狂わせがあり、金星をあげる前頭などもいたっけ…… 今の子はこんな遊び知らないだろうな。だいち学校や近所で相撲なんてとってないみたいだものね。だから他人の体に触れるのが気持ち悪いなんていうことをいうんだろう。押しくらまんじゅうなんて理解できない遊びらしい。 さて相撲のことだけど、僕は昔ある雑誌に相撲のいわれを調べて書いたことがあるのだが源は神事だったそうだ。 今のような興業のかたちになったのは江戸時代で、それも勧進奉納相撲であり神事の名残をもっていた。まわしに付けるサガリはあれは神様が身につける草なんだそうだ。行司は審判と言うより囃す者らしかった。まあそんな文化的土壌があって国技といわれているわけだけど、小錦や曙の頃が懐かしいって言う感じがする今日この頃だ。 朝青龍の登場によって勝負の模様がずいぶん異なってきた。勝ち方が「どうだ俺は強いだろう」といわんばかりの相手への当てつけがいやになってくる。昔の力士は負けたものに手をさしのべて起こしてやるという気遣いがあったものだ。相撲はk1ではないのだ。エンターテーメントではなく日本生まれの武道なのだ。そこんところを親方衆よ、外人力士衆よ、よくわきまえておくれ。相撲甚句なんかわからないなんていわせないからな。 まあいいか、どうせ見ないんだから… # by hensyuchou | 2006-09-16 16:24
再開 このコラムの掲載するHPを変えました。もうすこし「3丁目の夕日」を冒険させたくてね。なにしろあそこは健康志向のページでちょっと僕の書く内容がずれてきていると感じてきたからです。テレビで喩えてみればNHKの教育番組みたいな感じがしていて、もうちょっと自由な感じがほしいと思ったわけです。いってみれば民放の深夜番組みたいな。 というわけで「私の3丁目の夕日」再開です。 空はあっという間に入道雲から鱗雲に変わってきている。夏の高校野球も昔見たドラマのような気がするぐらい遠い昔の出来事のようにあの鮮やかだった色彩を失ってきている。現代の時間を消費する速さは恐ろしいくらいに私たちの感受性を鈍磨させている。 しかし、幼かった頃の遠い記憶は輪郭の曖昧性は別として濃密な時間の蝕感は今も手に確実に残っている。 つい先日このコラムの前半によく登場してきていたマサアキチャンのHP(尾越マサオのパー ラー・ソル) をのぞきに行くと最近書いたらしい一枚のイラストに出くわした。越後特有のハサバの並木がある田んぼの中を2両連結で走るトッテツ(正式には栃尾鉄道という)の懐かしい風景だ。土合口の駅もちゃんとある。 このイラストを見ていると様々な記憶が蘇ってくる。電車から見る風景はもちろんだが、電車がレールを走るゴトンゴトンという音、車内の匂い…あの電車も線路も今はない。無性にあの頃に帰り、あのトッテツに飛び乗りたくなった。「3丁目の夕日」では電車は都電だったが、僕らの土合3丁目の人々は田んぼの中をコトコトと走る軽便電車だった。扉も自分で開け閉めするんだよ。ぜひどんな電車かマサアキちゃんのイラストを見て想像してしてほしいな。 そうそう彼のお袋さんが亡くなったという訃報を知りました。彼のお袋さんはとても優しくて品のあるおばさんでした。こんなところでなんですが冥福をお祈りしたいとおもいます。さよならおばさん。合掌。 # by hensyuchou | 2006-09-12 12:19
八月になると、ようやく長い梅雨が明け、夏になった。暑いね。暑くても雨の多い冷夏よりはずっと気持ちがいい。 蝉時雨が遠い子どもの頃の夏休みを思い出させる。家の前を自転車に乗って子どもたちが市営プールに行く姿が見える。夏のプールは子どもたちにとって最高に楽しい遊びにちがいない。 僕らも小学校の頃は、おやまの悠久山プールによく友達とでかけたものだ。(中学になるとクラブ活動で長く、拘束されたが、それでも信越線の鯨波、あるいは越後線の寺泊、出雲崎あたりまで海水浴に友達と出かけた。)今考えてみればプールの水だってそんなにきれいなものではなかったにちがいない。もちろん流水プールなんてものもなかった。それにしても、埼玉のふじみ野市の流水プールで小学二年生の女の子が事故で亡くなったが、あのずさんな管理を聞くにつれ、腹立たしさよりもやりきれなくなってくる。あれは事故ではなく殺人である。 いつからだろうか、日本人の社会に、律儀、責任、勤勉というものがなくなってしまったのは。それは官僚・公務員、警察・企業においても生命を握る技術管理部門に至るまで日本全体が危機的なまでの痴呆状態に陥っている。このことは誰だって認めないものはいないだろう。 なぜだろうか?たとえば、昔、国鉄といえば、安全管理にたいする自覚はどんな職員だろうがもっていたとオヤジは言っていた。組織は勤勉に事故を起こさぬように動いていた。いまや毎日のように起こる線路の切り替えポイント事故や信号機の故障など信じられようもないことが起こっている。航空会社だって、少し前まで、外国に行くなら必ず日本航空を選んだものだ。愛国精神というより、安全管理に対す企業人、技術者の質が外国よりも絶対に日本人のそれを信じたからである。いまではJALを避けている。こんなことはあり得なかった…それだけはどこの国の民族にも負けない美徳だったはずなのに。 JRやJALに見られるように利益を優先させるにはコストダウンのための外注という仕組みが、組織の体質を大きく変化させてしまっているのは周知のことだ。誰しもがどうしてこんな社会になってしまったのかと思いながらどんどんと律儀、責任、勤勉と無縁になっていく。 あの夏休みにトンボを追いかけたり、入道雲の湧く空の下で、海やプールに遊んだ僕らも、みんなこんな社会を容認しているわけではないと思いつつ、生き残るために頑張っている。 そして頑張れなくなると、朝の鐵道のホームから飛び込むのだ。そんな自殺者が年に3万4千人もいる。ほんとうに信じられない国の状態である。 # by hensyuchou | 2006-08-07 08:10
郡上八幡の盆踊りを見ました。 小生57歳にして、初めて盆踊りのすばらしさに唸りました。ご周知のように郡上の盆踊りというのは約1ヶ月近く、町内のいろいろなところで催されて、お盆時には4日間、徹夜で踊るといわれるほどの盆踊りのメッカだ。僕が見たのはちょっと町はずれのお城の下の広場だった。それでも夜の8時ともなると浴衣を着た老若男女が三々五々集まってきて、お囃子衆の屋台の下を輪になって踊っていた。 郡上の八幡出ていくときは、雨も降らぬに袖しぼる 天のお月様 ツン丸こて丸て 丸て角のて そいよかろ 輪はどんどん大きくなっていく。驚くことにヤンキー風の兄ちゃんも、姉ちゃんも浴衣を着て踊っている。郡上が盆踊りのブランドだから若い者も寄ってくるのだろうか。 僕の田舎も長岡甚句という立派な盆踊りをもっているが、長岡まつりの大寄り合い所帯のものは別として、町内の盆踊りは地元のじいさん、ばあさん、それと子どもがほんとうに申し訳程度に輪を作っているというくらいのものなのだ。長岡の盆踊りだけでなく岐阜県の他の街の様子もそう変わりないと岐阜美濃から来ていた人が言っていた。 盆踊り好きという人種がいて、盆踊りはその人たちがやるものぐらいに考えていたが、若いヤンキー兄ちゃんの踊る姿を見ていると、不思議な感慨にしたってきた。若い女性の浴衣姿の踊りがやけに色っぽい。 若い娘と新木の船は 人が見たがる乗るたがる 一夜寝てみて寝肌がよけりゃ 妻となされよいつまでも 盆踊りの土着性のなかに、性的な表現が盛り込まれていることはよく知られている。踊る男女が性的な契りを一夜限りで行われることも多々あったという。踊りの中の性的な言葉が共同体を捨て去ろうとしていた僕らの意識には疎ましいものとして感じていたのかもしれない。僕が今まで盆踊りに対してあまり興味を抱かなかったのはそんなこともあったのだろう。男女の出会いは盆踊りの夜でなく、新宿や六本木の方が格好いいと思っていたのだ。 輪の中には団塊の世代も見える。学者の卵?(インテリの雰囲気がある)のような男女も踊っている。もちろんおじさんも、おばさんもみんな、幸せそうに踊っている。 ああ、こんな世界があったんだと目から鱗が落ちるような境地で盆踊りを眺めると 昔の日本人の切ないながらも瞬時の開放的な伸びやかさを感じ、そのたくましさこそ踊るエネルギーなのだと考えさせられた。踊りということはどんな民族にも精神の昂揚を体現するものとして続いてきたのだった。 盆踊りっていいものだと思うのは、ただ僕が年を喰ったからだけなんだろうか、演歌はいいなあと思う気持ちと同じなんだろうか?僕は別に演歌がいいなあと思うこともそうないのだが… 最近の奇っ怪な殺人事件などを聞くたびに、共同体の崩壊を空恐ろしいまで感じるわけだが、そんなことが下敷きになって、盆踊りというものを見たのかもしれない。 # by hensyuchou | 2006-07-29 21:48
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